平成18115      「原爆の炎」

昨年暮れのこと・・・

父の代から長いこと檀家総代をされていた方が亡くなられて、枕経、通夜、葬式と過ぎ初七日を迎えたが、お姿が

見えない。どこに居られるのか分からない。二七日を迎え読経していると、「俺は迷ってしまった・・・ここはどこだろ

う・・・?」という声がして、近くの大きな神社の杜とそこの信徒会館の二階の窓が見えた。

あれ〜、神道に入られていたのか?と思ったがそんなはずもない。どうやら迷い込んで、その会館の中に居られる

ようだった。このことを家族の方に告げると、故人は入院中その神社の杜に散歩に行っていたことを教えられた。

強度のアルコール依存症で入院されていたこともあり、迷って帰り道が分からなくなられたようだ。三七日に読経し

てお連れすることができて、ほっとした。

しかし僕が驚いたのは、そのことではない。故人の魂に信じられないほどの幾多の浮幽霊が憑いていたのである。

真っ暗な空間に、困りきった故人が立ち尽くし、回りを取り囲むように無数の人魂(火の玉)が浮かんでいた・・・

生前故人と酒を酌み交わしながら、長崎で被爆したときのことを聞いたことがあった。

被爆地点からさほど遠くない工場で彼はその瞬間も仕事に没頭していた。頭の上に凄まじい光が射し、工場全体

を包んだかと思った瞬間、すべてが吹き飛ばされ、気が付くと自分は裸で彷徨っていたと・・・・

周りの無数の霊魂はそのときからずっと彼に憑いていたのか・・・!

よくぞ
これほどの浮かばれぬ魂を背中に背負い、ほとんど毎日酒を酌み、完璧に仕事をこなし、市会議員にもなら

れ齢八十二歳まで病気ひとつせず頑張ってこられたものだなぁ・・・・思わず感服してしまった。

人並みはずれた度量の持ち主だったに違いない。

年が明け、月忌参りの読経をしながら、静かに冥福を祈り、お世話になったことを心から感謝した。

しかし、もっと早くに気が付けば、もっと楽にそしてもっと長生きされたに違いないと、悔やまれた。

平成18年正月2日        「金剛蔵菩薩」

今年で二度目となる『新年三十六時間護摩』の初日

弟子の慈観が護摩壇に登り、私はご家族をお堂に引導し読経でバックアップに回っていた。

昨年同様 大忙しの護摩となり、一歩もお堂から出られなくなってしまう。が、楽しくて仕方がない。

これほどに、信者の皆さんと我々と不動尊 三位一体となり、法悦に浸る空間を他に知らない。



時間もはっきりしないが昼も過ぎ3時ごろだったろうか、元気なご家族が勢ぞろいで新年の祈願に入ってこられた。

ご一同を堂内に導き、百八支の護摩木を一気に燃え上がる炎の中に投入せしめ、この御一家の祈願は終了した。

慈観は疲れも見せずいきなり礼盤に巨体を起こすと、「スゴイ護摩ネ!ダイナミック!」と楽しそうに此方を向いて笑

った。夜になり、訪れる信者の方々の足が途絶えたとき、やっとそのわけを聞いた。

・・・・護摩の真っ最中、ご家族が次々と投げ入れた108支の護摩木は壇上を飛び転がり、あちこちで燃え始めた。

慈観は一本一本を火箸で掴み釜の上に戻すのに大わらわとなった。まさにそのとき・・・・

護摩壇上、四方に炎に包まれた四本の独鈷杵が現れ四角形となり、
三摩耶形をなした。更に頭上に 右手に蓮華

を持し左手は施無畏印の菩薩が現れた。慈観は『仏様チョット!チョット待ッテテネ!』と詫びながら、慌てて護摩木

を釜に戻し続けたというのである。

我々はそのときの慈観の慌てふためく様子を想像しては大笑いしながら、曼荼羅の解説書を取り出し開いた。

そしてその仏様が金剛蔵菩薩だと知った・・・

 

平成18年正月21     「金剛蔵王菩薩」

初大師の朝、心にある悩みを抱きつつ壇に登り、薬師如来法を修す。

はっきりとは定まらなかったが、仏が三体現れ、金剛手菩薩から薬師如来と変じ、金剛蔵王菩薩となられた。

最後の方は私の真正面に立たれ、全身青黒色のお身は若々しく精悍で、白眼のみ真っ白に光り、お口を開かれて

いる。未開の地の土人かと思いなしたが、強烈な緊迫感に仏だと知った。

私はその凛々しい戦士の如きお姿に魅せられた。

お姿を思い返せば、金剛蔵王菩薩の権化・蔵王権現とも見える。

蔵王権現は一般的に、右手に三鈷杵を振りかざし、髪は逆立ち左手は不動剣印にされている。

その仏の髪は金剛蔵王菩薩に似て居られたが、壱百八譬の御手が見えなかった。金剛蔵菩薩の二譬のお姿、

やはり蔵王権現が近いと感じる。

荒ぶる破邪の仏よ。邪悪を催破し、仏法を護りたまえ。

吉野山金峯山寺 蔵王権現像

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