護国山佛生院金剛乗寺談議所由緒縁起略記
抑當山由緒之儀ハ人皇五十三代淳和天皇之御宇天長二乙己年本宗祖師弘法大師開基ニシテ
當時有名屈指之大伽藍ヲ建立シ世ニ西之高野ト称セシ真言一派之大院ナリシガ後大ニ衰弱ニ及ビ
シ処元暦年度 後鳥羽院勅願トシテ大二御再興ニ相成後又衰退ス然ルヲ元弘辛未年中興開山権
中僧正恵鏡法印再興アリ其後文明年度當山中興権大僧都法印宥明大徳當所温泉涸渇回復祈[祷
]功労ニヨリ菊池肥後守藤原重朝公田畑壱町余ヲ寄附セラル寺敷一町三畝寺領ハ十石寺僧屋敷
十八ケ所然ルニ其後加藤清正公寺領及寺敷等悉ク没収シ寺敷僅カ六反十九歩ヲ残シ更ニ毎年米
弐石宛ヲ寄附セラル−清正公在判之書今尚有−後當寺類焼之時モ御用木ヲ下附セラレ国中奉加
御奉行中嶋正規ニ申付御取立之上下附セラル後細川忠利公寛永[二十]年癸未三月清正公ヨリノ
寄附米ヲ廃シ寺敷丈従来通リ寄附セラル−之寄附有−其後真源院殿由緒出格之訳ヲ以テ御祈[
祷]被申付付妙應院殿御疱瘡之節モ御祈[祷]被申付如*朝廷始メ代々之国主ニ対シ由緒アルヲ
以テ度々御再興ヲ蒙ル就中往古湯町出火之節當院類焼之時ハ国主ヨリモ先例ニ任セ當所御茶屋
御作事之材木ヲ下附之上国中奉加申付ラレ御郡代中ヨリ御取立下附セラル依テ御位牌堂及客殿
庫裡等悉皆再建其後大破ニ及ビタル時モ御郡代野田小三郎ヨリ被申付御山材木下附セラレ當郡
中ヨリ人夫葺草等*合カニ相成本堂御位牌堂庫裡凡ソ修覆出来尚又元禄年度類焼之時モ御郡代
関又左衛門ヨリ申渡サレ国中奉加御惣庄屋、取立被申付尚御山材木下附セラレ客殿庫裡再建然
ルニ本堂御位牌堂ハ其儘ノ*享保年度御山材木下附セラレ芝居見世物等許可ニテ再建其後天保
七年自火ニテ本堂ヲ除ク外悉皆焼失ス依テ弘化四年御山材木下附セラレ現今之庫裡客殿等再建
ス(記録アリ)前顕特別著明ナル由緒ニ付江府御参勤御下国之節ハ當院之主ハ當所御宿所*御
目見独礼定例申付ラ
護国山佛性院金剛乗寺談義所由来略記
そもそも当山のいわれは、人皇53代淳和天皇(後、仁明天皇。合わせて824年〜834年)が治められて
いた天長2年(825年)、真言宗の祖師、弘法大師が開かれたもので、当時としては有名屈指の大伽藍
(仏僧が修行する建物)を建立し、世間で「西の高野(高野山の略:真言宗の総本山)」と言われるほどの
真言一派の大寺院でしたが、その後衰退していたところ、元暦年度(1184年)、後鳥羽院によって大いに
再興されました。
しかし、その後また衰退していたのを、元弘元年(1331年)、権中僧正〔恵鏡法印〕により再興され、その
後、文明年度(1469〜1487年)、当山の中興権大僧都法印〔宥明大徳〕が、その祈祷による温泉の回復
(山鹿の温泉はその頃一時お湯が出なくなっていました)に功があったとして、菊池肥後守〔藤原重朝公〕
から、田畑一町余りの寄付をいただきました。これにより、寺敷一町三畝、寺領八十石、寺僧屋敷十八箇
所になりましたが、その後、加藤清正公により、寺領、寺敷などを没収され、寺敷は僅か六反十九歩を残
すのみとなりましたが、毎年、米二石はいただけることになりました。清正公のその時の書類は今なおここに
あります。
その後、当寺が火事に見舞われました時は、国中奉加奉行〔中嶋正規〕を通じ、御用木をいただきました。
その後、細川忠利公は、寛永20年(1643年)3月、清正公よりの寄付米を廃し、新たに寺敷だけを従来通
り寄付されることになりました。
その後も、高貴な方の病の時など、たびたび祈祷を頼まれるようになり、朝廷はじめ、代々の国主の方々
も、当山の由緒を重んじ、度々再興していただきました。
そんな中、湯の町に火事があり、当院が類焼した時などは、国主から先例通り、材木をいただき、これによ
り御位牌堂や客殿、庫裏など全部再建することができました。その後、壊れました時も、御郡代〔野田小三
郎〕を通じ、材木をいただき、当郡中の人夫の協力により、本堂の御位牌堂、庫裏はおよそ修復できました。
尚また、元禄年度(1688〜1704年)の類焼の時は、御郡代〔関又左衛門〕を通じ、材木をいただき、
客殿、庫裏を再建することができましたけれども、本堂の御位牌堂はそのままでした。
しかしその後、享保年度(1716〜1736年)、材木をいただき、芝居見世物などの許可もいただき、再建
することができました。
天保7年(1836年)、失火により本堂を除きすべて焼失しましたが、弘化4年(1847年)、材木をいただき、
現在にいたる庫裏、客殿などを再建することができました(記録あり)。
このように、著名な由緒のため、(細川公が)江戸参勤の上下に当地に宿を取られる時は、必ず当院の
主人は宿所に招かれ、公に面会を許されておりました。
童子椿は花無し椿
山鹿千軒 たらい無し ー 野口雨情