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Vajrayanaの四季




温泉由緒縁起略録


抑當町温泉之原由ハ人皇七十七代後白川天皇保元丁丑秋當国ニ下向シテ菊池家ニ属スル斎院次官

従五位下宇野七郎源親冶寿永二癸卯秋此山ニ狩リシテ山谷小鹿之群リ臥シタルヲ見テ温泉之有ルヲ

発見シ願主トナリ国主菊池六代九郎隆直公ヘ乞ヒ許可ヲ得テ湯主トナル後次第ニ繁昌シテ富貴トナル文

治二年丙午八月親冶卒ス 子孫相続テ湯主トナル然ルニ文明五癸己年ニ月ヨリ温泉次第ニ涸渇シテ日

ニ増シ入湯困難ナルニ付湯主左金五親宗種々ニ修繕ヲ[尽]セシモ[いささか]其効*ニヨリ里人等モ全

ク人力之及ザル処ナリト愁難シケレバ左金五モ良策尽テ政府ニ申達温泉涸渇ノ災害ヲ除カンコトヲ依テ重

朝公笑止ニ思食サレ其此世ニ有名ナル當山中興法印権大僧都宥明師ハ菊池十八代左京大夫高瀬相

模守兼朝公之御舎第ニシテ即高瀬町宝成就寺ニ於テ剃髪シ該寺之住職トナリ後當院之住職ニ転住ス

然ルニ菊池[二十]一代冶郎為邦公文正元丙戌年三十七歳ニテ出家シ宥明師ヲ法之師範ト頼ミ給フ折

柄ナレバ其縁故ニ依テ重朝公ヨリ宥明師ヲ請シ温泉涸渇災害退除御祈[祷]御頼ニ付宥明師ハ承諾之

上温泉地方ニ一宇之坊堂ヲ乞ハレケレバ重朝公幸ヒ武重公御建立之古堂地敷等取調ベ其筋ニ申付新

ニ一宇建立セラレシ漸ク同年7月上旬ニ本坊美事ニ出来[當院ニ申伝]依之宥明師ハ喜悦シ入院セラレ

清浄式ヲ修行シテ本尊*皇薬師日光月光十二神将ヲ安置シ奉リ称シテ硫礦山浄瑠璃寺ト号シ開眼入

佛作法等相済同月十五日ヨリ開白セラレ毎日三時之修行怠リナク温泉災害退除湧出長久之祈[祷]ヲ不

惜身命ニ励マレケレバ神佛之冥慮ニ徹スルヤ感應空シカラズ遂ニ同十二月廿日丑之正刻ニ至リ温泉俄

然ト湧出湛満シケレバ参籠之役員始メ湯主左金五等歓喜胸ニ満チ合掌感涙ストアル依テ主張之役員ハ

直チニ此由ヲ政府ヘ届出タリ軍人モ喜悦之*リ万歳ヲ唱ウル声止ザリシト実ニ左モアル可キコトナリ[この]

時宥明法印ハ数月之修法満座之作法式ヲ了ルマデ開湯式之作法ヲ修シ法印ヲ始メ供僧*役員湯主左

金五等何レモ順序ニ開湯シテ味酒披露相済後帰寺セラル依テ重朝公御感不斜法印ヲ請シテ満足ニ思

食サル旨被申渡則数月之功労ヲ賞スル為ニ更ニ田畑壱町余歩ヲ寄附セラル如斯温泉ニ特別関係アル

以テ毎年ナニ月温泉祭定例トナル但開湯式ハ審級共ニ丑之上刻ナリ前述之如ク涸渇之温泉回復シ

テ未代*當町ニ幸福ヲ与ヘルモノハ全ク宥明師修法力ノ致ス処ナリ然ルニ惜ツキ大徳ハ同十七年乙己

九月十五日當所七ッ石宥明塔之地ヨリ登天シ給フ其時送別ニ至ル友人中ニ告ゲテ云ク吾寺之童子椿

今年ヨリ花*ミテ不開若シ開ク時ハ吾寺ニ帰リタルト思フ可シト申残シテ身ハ雲中ニ隠シ給フトアル偖此

印在世之間奇特実二多シ或時百座ノ法修セラル朝一童子来リテ僧都之袈裟ニ垢付タルヲ見テ清洗

シ来ラント乞フ依テ大徳袈裟ヲ渡サレシニ申之刻斗リニ持来レバ法印叱リテ汝何故ニ斯ク遅参セシヤト童

子答テ云ク貴僧之御袈裟尊クテ洗フ処ナシ天竺龍***沙河ニ至リテ清洗シ来ルト時ニ法印笑テ其水

ヲ爰ニ落セヨト云ハレシ時童子忽消失シテ頓テ水庭前ニ降ル大徳感ジテ其地ニ井ヲ設ケ童子井ト称シ

ヒシトアル*々鳥栖村野々島[]財天降臨影向アリシ井トイフ登天ノ後ハ告*如ク毎年花*ミテ開カズシ

テ落ツ今現ニ庭前ニ繁アリ云々又云ク野々島迄ハ里程凡三里余ナルヲ暑寒風雨之厭ヒナク毎朝日参奇

特之感情應ヲ*ラリシト云フ又菊池治郎為邦公ハ兼ネテ御師範ヲ頼ミシ法印之修法力ヲ聴キ給ヒテ俄カ

ニ御登山アリテ法印ニ[]財天之秘法ヲ修セシメ給フニ忽チ五童子之化現アリテ法印ノ補佐シ給フヲ見

テ疑念頓ニ晴レタマヒ夫ヨリ信仰益々深ク成ラセラレ毎度御登山アリテ御邦之示談被為在シト云然ルニ法

印登天之後其地ニ廟塔ヲ建テ*々御供養アリシト云其後為邦公モ長亨ニ戊申十月廿三日御逝去アリテ

御墓ハ玉祥寺ニ有ト云其他風土記鹿郡伝記古語ニ委シケレバ今爰ニ略ス
【温泉由緒縁起略録】

 そもそも当町温泉は、人皇77代、後白河天皇が治められていた保元年間
1157年)秋、中央より当

国に出向して、菊池家に仕えていた斎院次官従五位下〔宇野七郎源親治〕が、寿永2年(1183年)秋、

当山に狩りに訪れ、山中に小鹿が群がり寝ているのを見て、温泉があるのを発見したことに始まります。

 彼自ら願主となって国主、菊池6代九郎隆真公へお願いして許しを得、湯主となり、その後、温泉は次第

に繁盛し、大きな富を得ました。

 文治2年(1186年)8月、親治が亡くなり、その子孫が事業を受け継ぎ、湯主となっておりましたが、文明

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年(1473年)2月から次第に湯が出なくなり、日に日に入浴が困難となり、当時の湯主、左金五親宗があ

れこれ手を尽くしましたが、少しもその甲斐なく、里人も、もう人の力ではどうにもならない、と嘆いておりまし

た。

 左金五も、万策尽きた上は政府にお願いして、何とかその枯渇の災害を取り除いてもらおうと、重朝公に

頼みこみました。

 すると、重朝公は笑って、

「お前の所には金剛乗寺というのがあるではないか」

 当山の中興法印権大僧都宥明師は、菊池18代左京大夫〔高瀬相模守兼朝公〕の弟で、高瀬町宝成就

寺で剃髪し、成就寺の住職となり、その後当院の住職に転任された方です。しかも菊池21代、治郎為邦公

は文正元年(1466年)、37歳で出家され、宥明師を法の師と仰がれている間柄でもあり、その縁故によっ

て、重朝公は宥明師に温泉枯渇災害退除の祈祷をお願いされました。宥明師は承諾の上、温泉地方に

一棟の坊堂を建てていただくようお願いされました。重朝公は、武重公が建てられた古堂の地敷などを調

べられ、その筋に申し付け、願いの坊堂の建設に取り掛かられました。

 同年7月上旬、坊堂が完成し、宥明師は喜んで入り、清浄式を修行して本尊
皇薬師(一字不明。原

文のまま:薬師如来のことと思われる)、日光、月光、12神将を安置し、「硫礦山(医王山とも)浄瑠璃寺」

と名付け、開眼入仏作法などを済まされました。

 715日より祈祷を始められ、毎日三度の修行を怠りなく勤め、温泉災害退除湧出長久の祈祷を不措

身命に励まれました。

 同1220日、その祈りは神仏に届き、午前2時頃ついに温泉が湧き出し、あたりを満たしました。その場

に居合わせた役員はじめ、湯主の左金五などは喜びに満ち、手を合わせ、感涙にむせびました。

 この知らせは早速政府にもたらされ、軍人なども喜びのあまり万歳を唱え、その声はしばらく止まなかったと

いいますが、まったくその通りだろうと思います。

 宥明法印は、満座の人たちと共に開湯式を行い、法印から順に湯を浴び、祝いの酒を酌み交わし、その

後寺に帰られました。

 重朝公も大変喜ばれ、法印を招かれ、その功労を讃えて、田畑一町歩を寄付されました。これより毎年

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月に「温泉祭」が定例となりました。ただ、開湯式は午前2時頃となっております。

 このように、枯渇した温泉が回復して、当町に幸福をもたらしたのは、まったく宥明師の法力のおかげです。

ところが惜しむべきことに、宥明師は文明17915日、当所七つ釜、宥明塔より登天されました。別れの

時、法印は訪れた友人に、こう告げられたといわれています。

「今年から、わが寺の童子椿が開く時、私が寺に帰ってきたと思いなさい」

そう言い遺して、法印は雲中に身を隠したといわれています。

 この法印の在世中、大変不思議なことが数多く起こったと伝えられております。

 ある時、法印が百座の修法をしておられた朝、一人の童子が来て、

「法印の袈裟には垢が付いております。自分が洗い浄めて参ります」

と言うので、袈裟を渡したところ、午後4時頃になって、やっと持ってきたので、法印は叱りました。

「お前は何故こんなに遅くなったのか」

童子は答えました。

「あなたの袈裟は尊くて、とても普通の方法では洗えません。聖なる地へ行って洗って来ました」

法印は笑っていわれました。

「それでは、その聖なる地の水を、今ここに落としてみよ」

 その言葉を聞いた途端、童子の姿は消えてしまい、同時に水が庭に降ってきました。

 法印は大いに深く感じるところがあり、その地に井戸を設け、「童子井戸」と名付けられたということです。

またこの井戸には、鳥栖村野々島弁財天がたびたび降りて来られて、その姿を顕すということです。

 また、法印が登天された後、庭の椿は、毎年花はしぼみ、開かないままに散るということです。

 また、野々島まではおよそ3里余りですが、法印は寒暑風雨のいかんを問わず、毎朝日参されたということ

で、誠にご奇特なことと思います。

 また、菊池治郎為邦公は、かねてからこの法印の修法力を知っておられました。ある日突然法印を訪れ、

弁財天の秘法を修行されましたが、その時、たちまち五童子が現れ、法印の補佐をするのを見て驚き、その

日から益々信仰が深くなり、

毎度御登山アリテ御邦之示談被為在シト云。(翻訳難解のため原文のまま)

 そして、法印が亡くなられて後は、その地に廟塔を建てて、たびたび御供養されたということです。

 その後為邦公も、長享2年(1487年)1023日に亡くなられました。お墓は玉祥寺にあるということです。

その他は「風土記鹿郡伝記」の古語にあるので、ここでは略します。

童子椿は花無し椿
   山鹿千軒 たらい無し ー 野口雨情

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