【当町紙燈籠縁起由緒略記】

 そもそも、紙燈籠のはじまりは以下の通りです。

 文明17年(1485年)915日、宥明法印が亡くなられ、その後、宥恵法印が住職となられました。

 翌18年、宥恵法印は、先師宥明僧都のために、末寺の僧徒と、一派の高徳の僧を集められ、415日から7

15日まで、夏期90日の大法会を催されました。このため町人たちは大いに喜び、組頭たちが度々集まって話し合い、

自分たちも宥明法印のために何かしたいということになり、それではということで、当時、紙細工で有名な〔山口兵衛〕

という人に頼み、4月から7月までに数百の紙燈籠をこしらえてもらい、715日の夜、これを町中から宥明僧都の

尊像前へ献燈することになりました。これこそ、当所の紙燈籠のはじまりなのです。それから毎年715日の夜、定

例として紙燈籠を献ずるようになりました。

 ところが、延徳3年(1491年)、当寺の檀家、大宮の社司、大宮加賀守が、当町の組頭たちを引き連れ当寺に参

り、宥恵法印に対面しお願いしました。

「今年から毎年715日の夜、宥明尊前の紙燈籠献燈が終わった後は、16日の夜、町内を賑わすため、今度は

大宮神社へ献燈していただけないでしょうか」

 宥恵法印は、なるほど、それはその通りである、と承諾されたので、加賀守はじめ皆喜んで帰りました。

 これによって、その年の715日の夜、宥明僧都の尊前へ献燈された紙燈籠は、翌16日の夜、大宮神社へ移

燈するようになりました。それから、ついにこれが定例となりました。これが、大宮神社へ紙燈籠を献じるはじめとなっ

たのです。

 このように、その縁起は確かなものであったにもかかわらず、世が換わり、年を経るにつれて、当山が次第に衰えて

くると、人の心もまた変わってまいりました。遂に基本を忘れ、ただ末節のみにはしり、いつとはなく大宮のみに献燈す

るようになってしまいました。

 まったく嘆かわしいかぎりでございます。こんにち、温泉がおだやかに湧き、幾千百の人たちがその幸福を受けてい

るのは、すべて宥明法印の修法力によるものです。しかしながら、その功労を名ばかり残して、それに報いようとしな

いのは、本当に実のないことで、誠に哀しみに堪えません。私は世の盛衰を愁うるとともに、先師宥明師の高徳を世

に顕すことができないことを、日夜哀しんでおります。

 <中略>

 さて、かつての宥明塔が壊れた後は、一字一石の塔になりました。その後、元禄2年(1689年)12月の良き日、

現住職、権大僧都法印、入真一光の代、当町中より、大乗妙典之塔(宥明塔のことか?)が壊れているにつき、一

基の石碑を建て、補ったということです。石工は、同郡熊入村の木葉甚兵衛という人ですが、現在ある塔は、明和年

度の始めに建てたものであるということが鹿郡伝記にあります。

 また、宥明師が在世中に、弁財天の書法をもって書かれた御遺墨は、井上大森ツ守の家に分け与えられ、その他

にも、処によっては所持している人がおられるそうです。
【當町紙灯籠縁起由来略記】  (原文)



 抑紙灯籠之原由ハ文明十七乙己年九月十五日宥明法印登天之後宥恵法印住職ト

ナル翌十八年先師宥僧都之為ニ宥恵法印末寺之僧徒ヲ集会シテ一派之大徳ヲ請シ

四月十五日ヨリ7月十五日迄夏期九十日之大法会ヲ修セラル依之當市各町大ニ随

喜シ組頭中度々集会シテ宥明法印之報恩之為其頃紙細工ニ有名ナル山口兵衛ト云

人ヲ頼ミ四月ヨリ七月迄数百之紙灯籠ヲ拵ヘ七月十五日之夜町中ヨリ宥明僧徒之

尊像前ヘ献燈ス是全ク當所紙燈籠之源初セ夫ヨリ毎年七月15日ノ夜定例トシテ

紙燈籠ヲ献ス然ルニ延徳三辛亥年當寺檀家大宮之社司大宮加賀守當町組頭中引連

レ當寺ニ来[]宥恵法印ニ対面シ今年ヨリ毎年七月十五日之夜宥明尊前之紙燈籠

献燈相済シ上明十六日之夜町中賑合之為大宮神社ヘ移シ献燈致シ度旨ヲ乞ヒタル

ニ宥恵法印然ル可シト承諾有ケレバ加賀守ヲ始メ何レモ難有喜悦シテ退出ス依テ

其年七月十五日之夜宥明僧都之尊前ヘ献燈シテ翌十六日之夜大宮神社ヘ移燈シ夫

ヨリ遂ニ定例トナル是大宮神社ヘ紙燈籠ヲ献スルノ始メ也如斯縁起事実確明ナル

モ世換リ星移リテ當山ハ次第ニ衰微スルニ随ヒ人心モ亦随テ相換ス遂リ基本ヲ忘

レ唯末ノミニ走リ何日トナク大宮ノミ献燈スルコトトハナリ歎カハシキ哉今日温

泉安穏ニシテ幾千百之人民其幸福ヲ享クルヲ全ク宥明法印之修法カニ依ラザルハ

ナリ然レド其功労ヲ名ノミ称シテ報酬之実無キハ誠ニ悲歎ニ堪ヘザル処也予ハ世

ノ盛衰ヲ愁ルト共ニ先師宥明師之高徳ヲ世ニ顕揮ナラシムコト能ハザルヲ日夜悲

傷スル而実ニ回顧想無瑕スレバ前顕之如ク温泉ニ深重之功労アル由緒ナルヲ以テ

河東清正公モ一旦寺領等没収ナリシト{イエドモ}寺敷六反十九歩ヲ残シ更ニ米弐

石ヲ寄附ゼシ類焼之節ハ御用木ヲ以テ下附再建国中奉加ハ之郡奉行ヨリ取立下附

セラル

 其後細川公之御代ニナリシガ忠利公ヨリモ寺敷前ニ通リニテ米弐石ハ御廃止ト

ナレ共温泉之不浄米ヲ以更ニ米弐拾俵余ヲ寄附セラレ加之温泉祭ニハ御茶屋ヨリ

米五俵下附三俵ハ祭費トシテ當寺ニ奉納ニ相成残リ弐俵ハ湯主宇野七郎親冶之子

孫ト云温泉預主宇野某甲ニ下サル是之定例ニシテ偏ニ宥明師之高御之致ス所也爰

テ往古之宥明塔破損之後一字一石之塔ニ換ス其後元禄ニ己巳十二月穀現住権大僧

都法印入真一光代當町中ヨリ大乗*典之塔破損ニ付一基之石碑ヲ以補昔スト云石

ユハ同郡熊入村木葉甚兵衛也現今存在之塔ハ明和年度之始ニ建ルト(鹿郡伝記ニ

有)又宥明師存在中ニ[]財天之書法ヲ受ケテ能ク天女之種子ヲ用ユル遺墨ハ井

上大森ツ守之家ニ勧請ス其他処ニヨリ所持人有リ然ルニ明治維新之際ニ浄瑠璃寺

ハ没収セラレ温泉敷地トナル温泉ハ町中所有トナル町中一統申談シ明治七年二月

十三日第十五大[]一小[]湯町市中総代中原甚蔵用聞稲田仙次郎ヨリテ町長富

田又太郎ヘ温泉祭定例打換願ヲ出ズル其願書ニ伝フ



 山鹿温泉薬師祭ニ附



 山鹿温泉薬師祭之儀従来極月廿日修行到来*処右之通ニテハ大節季前ト申其上

寒中之儀ニ御座ス得ハ彼是祭之時候ヲ得不申*然処之節温泉修築之結構ニ付而者

年ヲ追輻輳仕*義ハ眼目前之儀ニ而是全ク所柄繁昌之基本*奉存*間極月廿日祭

日ヲ當年ヨリ三月廿日ニ打替同日ヨリ日数十日間諸方ヨリ座物等ヲ持寄セ市中ニ

市立致シ賑合之為店ニテ美話之鉢植*之手軽キ作物ヲ出シ申度此節市中一統之申

談ニ御座*勿論右ニ付而物費ケ間敷儀ハ無シ候間何卒薬師祭中市御免被下候様



奉願候事



  第十五大区一小区湯町市中総代同町用聞


    明治七年二月十三日    中原甚蔵
                 稲田仙次郎


  右之通願出申候間諸事仰山ニ無キ様屹度取締可甲候間被為叶御儀ニ御産候ハ

  バ願之通御免許被仰付被下度奉願候此及肩書仕上候事

  

            戸長
             冨田又太郎  印


    白川県権令 安岡良亮 殿   


   書面願之趣聞届候事


     明治七年二月十六日


         権令 安岡良亮 印   
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