平成18年6月21日     最前線


僕が高野山から戻り、ただ毎日退屈に、好き勝手に遊んでいたころのこと。

寺務所の縁側でぼんやりギターを弾いていた。たぶん早い春のころだったろうか、日差しが気持ちよかった。

みると数人の方々が石畳の上をこちらに近づいて来られる・・・嫌な予感がした・・・

そのころの私は、高野山大学を卒業し「加行(けぎょう−真言の僧侶になるための100日間の修行)」を終えはしたものの、

まだ一度もご祈祷したこともなく、またその方法も知らなかった。言わば、最前線の戦場を知らない戦士だった。

おまけにこの日は住職が留守・・・逃げられない状況だ(^^;)

35,6才の男性が困り果てた顔で話し始められた・・・

ご夫婦の不和で現在離婚寸前であり、近くの末法師さんに伺ったところ、次のように言われた。

裏の山の道を広げるためにお地蔵様を動かしたが、この地蔵様が障っている。元の場所へ戻しなさいと。

しかし誰も元の場所を覚えてはいなかった。それなら山鹿の金剛乗寺に行きなさい。きっと教えてくれるだろうと。


西南の役の田原坂の中の山路であり、たぶん誰かの遺体が埋められていたのかと推測される。

仕方なく車に乗せられ、現場に向かった。

麓から200メートルほど急な坂を登ったところに曲がり角があり、地蔵が立っていた。供物なども添えられ、お参りの

準備が整っている。覚悟を決めて、ご家族と共に読経を始めた。・・・・理趣経一巻。

・・・何かを感じる・・・はずもない。お経を静かに読むばかり・・・

春の日差しが開いた経本の上に若葉の影を揺らしている。静かな山・のどかな空気に心が安らいだ・・・・

「残念ながら何も感じませんでした。僕には分かりません。」

そう言おうと心に決めた。そして読経が終わり、ご家族に向き直ったとき、下のほうから巨大なボストンバッグを担いで、

50過ぎの女性が登ってこられた。普段誰も通らぬ山道、ご家族の皆さんも驚かれている。

どうやら20数年ぶりに故郷に里帰りされたご婦人という。ご結婚されて今まで一度も帰ったことがなかったのだ。

息を切らせて、しかし久しぶりの帰郷に心が弾んでおられるのが分かる。そして、こう言われた。

「お地蔵様はここに建って居られましたよ!」・・・・・・

その場にいた者は皆一様に呆気にとられたまま顔を見合わせ、やがて歓声が上がった。

一番驚いたのは僕だっただろう。

このことから、どんなことがあっても一心にお参りすれば、仏様は必ず望みを叶えてくださると確信を持ったように思う。

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平成18年6月21日     心月輪?大金剛輪?


10年ほど前の話・・・夜半に雷鳴がとどろいた。

真夏のことで床に裸で寝ていた私は、その地響きに目を覚ました。

別棟にあるアトリエ(このころはまだ絵描きをしていた)の窓を閉め忘れていたことを思い出して、慌てて外に飛び出した。

アトリエの窓を閉め、庫裏の石垣の下の細い路地を傘を差して帰っていた時だった。

左側は石垣、右は当時券番(芸子の宿舎)。傘を差してやっと通れるほどの路地が10メートルほど続く路地である。

ふと気づくと、目の前に青白い光を放っているものが見えた。

・・・丸い形で、木の葉の脈のように無数の光の筋が走っている。傘を上げて見ると、直径3メートル程の見たことも無い

完璧な円である。しかも石垣や家の軒先に邪魔されることなく、浮かんでいた。

映っているものなら、でこぼこになるはずである。歩き出してみたが、完璧な円のまま、しかも私が歩くにつれて後退し、

常に1メートルほど前に浮かんだままだ。

「・・・?・・・」少し疑問を感じたが寝ぼけていたのだろう、驚くこともなく歩き続けた。

やがてその路地を通り抜け、多少大きな路に出ると見えなくなった。

部屋に帰り、再び床に横になる頃になって、やっと今自分の見たものが普通ではない、超自然的な出来事だったことに気が

付いた。

以前、ビルマの仏像の上に50センチほどの光の球が写っている写真を見たことがある。

それに似ているが、私の見たものは2メートルほどの垂直に立った円だった。

何だったのか・・・未だに分からない。 ふと、「ア字観」 や 「月輪観」 という密教の観想に説く「心月輪」(しんがちりん)

と云うものではないのかとも思う。あるいは大金剛輪なのか・・・

たまたま見えてしまったのだ。

平成18年7月7日       最近感じること


ほとんどの人は誰も仏を信じていないということ・・・

毎日の生活をひたすら人生のすべてだと思い込まされ、この世界の価値観を鵜呑みにさせられて生きている。

誰もが先祖供養や霊は信じ、前世を知りたがり、守護霊を知りたがる。

竜や狐の魂を抱き育て、神や天に商売繁盛を祈る。

でも誰も仏の話はしない。

前世も霊も守護霊も輪廻転生も神も天も仏とは別次元の話である。

仏とは心、自由で豊かな真実の魂。

・・・「菩薩として生きるために生まれてきたことに気づきなさい!」・・・そんな声が聞こえませんか?

平成17年6月某日    買い物の途中で・・・


国道沿いの大きなショッピングセンターに入ろうと右にウィンカーを点滅させ、対向車の過ぎるのを待っていた。

ふと見ると、車の左側の道路端に花が供えられている。道路に大きく急ブレーキの痕が残り、洗浄液が振り撒いてある。

「事故か・・・まだ新しい・・・・・・」

真言を唱え合掌して、右にハンドルを切り、センターの駐車場に入っていった。

その夜半、なかなか寝付かれない。うとうとすると奇妙な夢にうなされる。

女性の姿が見える、お葬式の祭壇の前に立っている。痩せ型、髪が少し乱れている。浴衣を着ている。

そうか、今日のあの事故の人か・・・・訳が分かったので、その霊の話を聞くことにした。

事故現場近くの高校の前の自販機が見える。そこでコーヒーを買って、そのまま帰路に着いたが、対向車線に飛び出し、

ノーブレーキで大型トラックと正面衝突してしまった。 「ぐっすり眠っていました。」と言う。

子供さんたちと手をつないで小学校の正門に通う姿・・・・・職場の風景・・・・・そして苦しい生活を支えるために

バイトしておられたスナックのドアが見える。つい数日前そこで同窓会の二次会をしたから見覚えがあった・・・・・。

「母が気丈だから、子供たちの面倒見てくれように願っている。」と告げて消えた。

不思議な縁で、なんと私もお葬式に参列することとなった。夢で見たお顔の写真が祭壇にある。

突然の死であったにもかかわらず、静かに成仏されのには安心した。

数日後夢に見えた店を訪ねてみた。何気なく事故のことを口にすると、店のママがいろいろ話してくれた。

昼の仕事を終えたあと、更にコンパニオンに出ておられたらしい・・・疲れ切っておられたに違いない。

平成18年5月某日   ある女先生の話


疲れきって、ある若い女教師が訪ねて来られた。

受け持ちのクラスに手に負えない乱暴者の生徒がいて、悩んだ挙句鬱状態になったとのこと・・・

仕事から帰ってもイライラがつのり、朝起きることさえ辛くなっておられた。

祈りを捧げると,その方の魂が浮揚し、一般的に生霊と言われる状態になっていることが分かった。

定に入り祈る私の存在に気づき、はにかんだ微笑で話しかけて来られる。

仏の側に立つものに恐れを感じるのは〈生霊〉あるいは〈四足の霊〉の特徴だ。

あまりにも苦しい辛い状態が続いた所為だろう。

誰にでも起こりうること、誰にでも起こっていることである。

お参りが終わり、「ずいぶん苦しかったことでしょう・・・」と話しかけると、突然心の堰が切れたように涙を流された。

やっと自分を許されたのだ。

浮揚しかけていた魂は、仏の心、慈悲に触れ、自らを許し安らいで、我を取り戻した。

おそらく乱暴者の生徒さんも同じく〈四足の霊〉に犯されているだろう。 教室全体を仏の力で満たして祈ると、

態度を一変して、彼の方から教室を取りまとめる態度を取り出したと、後ほど聞いた。

いつまで続くか分からないが、先生が仏の慈悲の暖かさを受持し 放すことが無ければ、教室は安泰である。

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